- 君はこんなにも無自覚で
-
コンコンとドアをノックする音がした。
どうやら来たようだ。
「入れ」
「失礼しまーす」
自分が呼んだ生徒を見るため振り返れば、そこには予想だにしなかった光景が広がっていた。
「千晶、用って何なんだ?」
少し首を傾げ尋ねる稲葉。
だが千晶は眼を見開き、何も言わずこちらをじっと見ていた。
「千晶?」
どうしたのだろうか。
また具合でも悪いのだろうか。
しかし胸元を見ても黒い靄のようなものは見受けられなかった。
何も言わない千晶にしびれを切らした稲葉が口を開こうとしたとき、腕の中でにぃと小さな鳴き声がした。
「ん?」
「あっ、悪い。こいつ連れてきちまったんだ。やっぱり駄目だったよな」
そう言って稲葉が腕の中に収まる子猫を取り出し抱きなおすと、今度こそ音がするくらいに千晶が凍った。
幸い、稲葉には分からなかったようだが......
「椅子、座るぞ」
尋ねるが、千晶の返事も待たず勝手にソファーに座り、膝に子猫を降ろす。
膝の上で丸くなる子猫の背中を撫でてやりながら千晶に視線を戻し懇願する。
「千晶、今日一日でいいから見逃してくれないか?こんな雨の中放りだすなんて出来ないし....」
頼むよ、と言ってくる稲葉の髪は今だ濡れており、その毛先からはポタリ、ポタリと雫が落ちている。
拭いたとはいえ、一度濡れてしまった服がそう簡単に乾くわけがないので、濡れて透けているカッターシャツもそのままの格好だ。
「千晶?」
「っああ、なんだ?」
ずっと何も言わない千晶に、少し強めの声をかければ少し詰まりながらやっと言葉を返してくれる。
「なんだって...見逃してくれって言ってるんだけど?」
「ああ、それくらいかまわん」
「よかった。ありがとな」
ほっとした顔をした稲葉は膝の子猫を「よかったなー」と言いながら撫でていた。
可愛い......
「で?」
「......?」
「......アンタがここに呼んだんだろうが」
稲葉の言葉にようやっと本来の用事を思い出した。
衝撃的なことがありすぎてすっかり忘れていた。
「そう言えば、そうだったな。悪い」
「別に気にしてねぇけどよ」
「その前に、お前まだ濡れてんぞ。ちゃんと拭いたのか?」
「拭いたよ!そんなに濡れてるか?」
「風邪でも引いたら厄介だろ。タオル持ってきてやるからちょっと待ってろ」
「えっ」
止める間もなく席を立った千晶を稲葉は見送るしかなかった。
かばんの中からタオルを取り出しながら深いため息が出る。
なんだって、アイツは......
今、ソファーの上で子猫を構っているであろう生徒に声を掛けたことを、今更ながら少し後悔した。
襟足の髪からぽたり、ぽたりと落ちる雫が首筋をつぅ...と流れていく様は見てはいけないものを見ているような気になってくる。少し乾いたとはいえまだ濡れているカッターシャツは張り付き、その下の素肌が透けている。少し細いが、健康的に引き締まった稲葉の体は未発達ながらも、ある種の色気を放っていて目のやり所に困る。
いつもはそんなこと思いもしないのに、濡れている姿というものはなんとも情欲を誘ってくれるものだ。
それだけでもいつもと違う稲葉の様子に引かれる輩は多いだろうに、今は一緒に子猫がいる。
これが不味かった。
睨んでいるわけではいなのだがいつもきつめの目をしている彼が、とても優しい瞳を子猫に向けているのだ。
別に自分に向けられているわけではないのだが、その表情が、なぁ......
あの教え子は、実は結構可愛い顔をしているのだ。
鋭い眼光に騙されがちだが、ふうわりと笑った時など周りに花が飛んでいるかのように錯覚するくらい優しい雰囲気になる。
その笑顔が今、大量に振り撒かれているのだ。
子猫に向けられるあの笑顔を見た奴らはその表情が忘れられないことだろう。
もんもんと考えながらタオルを取り出した千晶は稲葉の向かう。
「ほら、さっさと拭けよ。風邪ひくぞ」
「さんきゅ」
稲葉は素直にタオルを受け取ると、濡れている顔や腕を拭きだす。
首筋に流れた雫を拭くためにボタンを3つ外し、襟元をくつろげ髪を掻きあげた。
なっ、なんちゅーかっこを.....
思わず額に手を当てて唸る。
これは、目に毒だ。
「んでさ、用ってなんなんだ?」
「っああ。コレ、薫からお前にって。なんか教材?みたいだけど」
疑問に思いながらも渡してやれば、稲葉は嬉しそうな顔をする。
「えっ、マジで!覚えててくれたんだ、薫さん」
顔全体で喜びを表現する稲葉に心の端っこがチリリと焼けつく。
んな顔、俺以外の奴に見せんなよ。
そう思ったことにはっとした。なんだ、コレ。
コレは、ヤバい。
心の中でドロドロした感情が蠢いた。
逃げられない。
堕ちていく。
沈んでいく考えを振り払うように軽く頭を降って意識を現実に戻す。
「あと、これを教室に持ってってくれ」
数枚のプリントを渡す。
「なんだコレ」
「連絡事項だとよ。朝、話さなきゃいかんらしい」
「ふーん」
あまり興味のなさそうな稲葉は、薫からの数冊の本とプリントを持って立ち上がった。
「用はこれで終わりか?」
「ああ」
「んじゃ、教室戻るな」
「なぁ、その猫どうするつもりだ」
「ん〜〜、田代らと相談してどうにかするよ」
「......大丈夫か?」
「おう」
にかっと笑って、稲葉は指導室から出ていった。
ズルズルズル...とソファーに滑り込む。
腹の底から深いため息が出た。
口元を押さえ、飛びそうになる意識を必死で押し留める。
なんなんだ、アイツは......
勘弁してくれよ......
稲葉の新たな一面を見て、嬉しく晴れやかな気持ちになる反面、他の奴らにも同じ顔を見せているのだと思うとなんとも面白くない。
俺だけが見ていればいいのに。
俺だけに見せていればいいのに。
危険な思いが渦の様にぐるぐると回り、頭を支配し染めていく。
手に、入れようか。
どんな汚いことをしても、手に入れたいと思った。
ずるいと思われてもいい。
極悪でも卑劣でも恋なんてものは手に入れたモン勝ちだ。
大人だから、子供だからなんて言えないぐらいには、もうハマってる。
本気で、落としてしまおうか。
そんなことを真剣に考えている自分に苦笑する。
余裕、ないなぁ。
まぁあるわけないか。
それでなくても同性という高い壁があるのだ。
なのにあの子は自分の教え子で、親子ほどとは言わないまでも随分年も離れている。
まぁ、そんなことで諦めたりはしないけど......
予鈴が鳴った。
教室へ行かねばならない。
さぁて、どうやって落としていこうか。
周りを見れば分かるように彼を狙うものは多く、ガードが固い。
負ける気は更々ないが、万が一と言うこともあるからな。用事は怠れない。
今頃、教室の机で田代たちに絡まれているであろう彼を思うと笑みが溢れる。
とりあえず、今日も彼がいるであろう屋上へ行こうかな。
これだけ晴れていれば昼になれば雨も乾くだろう。
二人で並んで昼寝して。
それでデートにでも誘おうか。
彼が弱い、この声で。
cotinue